西尾の偉人(茨木 のり子)

ページ番号1007667  更新日 2022年11月25日

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茨木 のり子(いばらぎ のりこ)(1926年~2006年)

詩人:個として美しく

茨木のり子写真

西尾とのゆかり

幡豆郡西尾町・吉田町 育ち(現 西尾市花ノ木町・吉良町)

西尾町立西尾幼稚園卒業(現 西尾幼稚園)

西尾尋常小学校卒業(現 西尾小学校)

西尾高等女学校卒業(現 西尾高校)

概要

 「倚(よ)りかからず」「自分の感受性くらい」「わたしが一番きれいだったとき」などの詩で、今なお多くのファンに愛される詩人茨木のり子。

 凛とした生きる姿勢と社会を見つめる鋭い批評眼、それでいて優しさとユーモアをも兼ね備えた彼女の詩は常に読者の心を励ます。平成11年、73歳のときに出版した第8詩集『倚りかからず』は、詩集として異例のヒットを記録した。いくつかの作品は中学校の教科書にも掲載され、また「花の名」「お休みどころ」「癖」など、 故郷である西尾に関する詩も少なくない。

 戦後あらゆる価値観が逆転するのを目の当たりにしたことで、のり子自身も文学の道への転換を決意する。 結婚後の24歳で詩作活動を開始すると、川崎洋と同人「櫂」を結成し、谷川俊太郎・岸田衿子・大岡信らととも に詩壇を牽引して「現代詩の長女」と称された。

父の転勤を機に西尾へ

 茨木のり子(本名 三浦のり子 /旧姓宮崎)は、大正15年(1926年)に大阪で生まれ、6歳の時に医師である 父・洪(ひろし)の転勤によって西尾町(現西尾市)へ移り住んだ。洪は山尾病院の副院長としてこの地に赴任し、のちに、当時 医者のいなかった吉田町(現 吉良町)で宮崎医院を開業。自立した女性の生き方を説き、のり子の人生に大きな影響を与えた。

少女時代と戦争

 西尾幼稚園・西尾小学校・西尾高等女学校と、 戦時下の西尾で少女時代を過ごし、空襲や食料難など苦しい時を経験し、東京の帝国女子医学・薬学・理学専門学校 (現東邦大学)の薬学部に在学中、 学徒動員された軍需工場で敗戦の日を迎えた。

茨木のり子の原点

 詩人茨木のり子の原点は、戦争体験でした。軍国主義教育を受けたのり子は、国の大義のために青春時代を翻弄されていた。 薬学部3年生の19歳で迎えた敗戦。戦争に青春をささげた少女が目にしたのは、荒れ果てた街の姿。周りの日本人は軍国主義から急に態度を変え、民主主義に突き進んでいくのでした。

 敗戦によって、今までの常識が突然ひっくり返り、そんな中でのり子は「何で」という感じがあった。「本当に自分の目で見て、自分の頭で考えること」が一番間違いが少ないということをのり子自身が戦争中に悟ったのであった。

現代に響く魅力

 これまでの暮らしや価値観が根底から揺さぶられ、何が正解なのか、何をよりどころとしたらよいのかが不透明な世の中において「自分の感性を信じる」ということ。これがのり子が見出した答えだった。

 くしくものり子が生きた時代と現代はどこか共通する部分がある。現代の若者たちの中にも時代の流れに翻弄され、自分をどのように保ったらよいか迷っている方がいる。時代を超えても色あせないのり子の言葉がこうした現代の人の心に響き、多くの人の共感を呼んでいる。

 ある人が言う。「『自分の感受性くらい』は、辛いときや迷ったとき、弱った自分が再び前に進んで歩んでいこうと思える、私の道しるべのような存在になっていました」

茨木のり子イラスト

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