茶道のお話4

ページ番号1002615  更新日 2021年4月27日

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日本の生活文化と深い関わりを持つ、独自の様式。そして茶道史に登場する著名人

茶道史に登場する著名人

栄西(えいさい)(1141-1215)

鎌倉時代の臨済宗の僧で、建仁寺、寿福寺の開祖。中国に二度留学し、中国、宗の禅院の喫茶法と茶種を伝えたといわれる。茶の薬効を著した「喫茶養生記」を源頼朝に献じた。

明恵(みょうえ)(1173-1232)

鎌倉時代、華厳宗の僧。栂尾高山寺の開祖で当代一の高徳と敬われた。栄西から茶種を贈られ、栂尾山で栽培したと伝えられている。

佐々木道誉(ささきどうよ)(1295-1373)

南北朝時代の武将でバサラ大名として知られ、「太平記」には、大量の唐物を賭け闘茶を行ったことが記されている。

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)(1394-1481)

室町時代の禅僧、大徳寺第四十七世。奇行で知られる。一条兼良、村田珠光ら在俗の弟子が多い。

村田珠光(むらたじゅこう)(1423-1502)

室町中期の茶人、今日の茶の湯の始祖。奈良称名寺の僧、茶の湯者を志して上洛した。茶会における精神性の重要さを説き、茶禅一味の境地に立つ新しい茶の湯を提唱した。

足利義政(あしかがよしまさ)(1436-1490)

足利八代将軍で在位中応仁の乱が起きる。東山山荘(銀閣寺)を造営。三代将軍足利義満の北山文化に対し、東山文化と呼ばれる芸術文化をつくる。作庭、立花、茶の湯、聞香、能楽、連歌などに優れ、所有の道具類は東山御物として知られる。

十四屋宗伍(じゅうしやそうご)(生没年不詳)

室町末期の茶人。京都、下京に住み、数奇者として知られ、紹鴎に茶を教えたとされている。

武野紹鴎(たけのじょうおう)(1502-1555)

安土桃山期、新興都市堺の茶の湯の中心人物。父は一代で富を築いた皮革商。紹鴎は早くから学芸に才能を示し、25歳で上洛、和歌を学び、茶は珠光流。閑雅な草庵の茶室、侘びの道具を創案し次の時代の茶の湯に大きな影響を与え、茶の湯中興の祖。今井宗久の岳父であり、利休の師匠。

北向道陳(きたむきどうちん)(1504-1562)

室町末期の茶人。利休に茶を教え、親交のあった紹鴎に利休を引き合わせたと伝えられる。

今井宗久(いまいそうきゅう)(1520-1593)

桃山期の茶人で堺の豪商。武野紹鴎に学び、紹鴎の女婿となる。早くから信長に近づき、紹鴎を継ぎ茶の湯の第一人者になるかにみえたが、秀吉の時代には千利休が重用される。茶会記として「今井宗久茶湯書抜」がある。

千利休(せんのりきゅう)(1522-1591)

茶の湯の大成者天下一宗匠。祖父は千阿弥を称し足利義政の同朋衆ともいわれる。父の代に堺で魚問屋を営み納屋衆に。田中姓であるが千阿弥の千を称するようになる。17歳の頃から堺の茶会に出、茶の湯を北向道陳に学んだ後、武野紹鴎に師事、大徳寺にも参禅した。信長の茶頭に任ぜられ、秀吉の時代には茶頭八人衆の筆頭。天上十三年(1585年)、秀吉が正親町(おおぎまち)天皇の御茶献上の際に後見役を務め、朝廷より利休居士号を賜る。利休の茶の完成は晩年の10年間といわれ、利休しか到達できない茶の境地を開いた。秀吉の側近としても政治的にも力を持っていたが、関係が次第に悪化し、天正19年、死を命じられた。

津田宗及(つだそうぎゅう)(?-1591)

桃山期の茶人、堺の豪商天王寺屋に生まれ、早くから茶の湯、歌道に名を成す。信長、秀吉の茶頭を務め、当代一の目利きといわれた。利休、宗久と並び、三宗匠とされた。宗及伝来の油滴天目茶碗は国宝となっている。

古渓宋陳(こけいそうちん)(1532-1597)

古渓は字名。桃山期の禅僧、大徳寺第百十一世。秀吉によって筑紫配流になった際に、親交の深かった利休が催した送別茶会は有名。禅での弟子は利休ほか、千道安、今井宗久、古田織部ら。

住吉屋宗無(すみよしやそうむ)(1534-1603)

桃山時代の堺の茶人。背高肩衝(せいたかかたつき)や松本茶碗など名器を多数所持していた。利休に学び、秀吉より堺八茶道者の一人に召され、御伽衆となる。

織田信長(おだのぶなが)(1534-1582)

戦国時代下剋上の世に尾張に起こり、徳川家康と同盟し天下統一を目指すが本能寺の変に倒れる。今井宗久、津田宗及、利休らを茶頭に起用、「名物狩り」により天下の名物を所有。茶の湯を政治の世界に取り上げ、桃山期の武人茶を盛んにした。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)(1536-1598)

信長に仕え、後を継いで天下統一を達成。利休、今井宗久、津田宗及らを茶頭に起用、中でも利休の侘び茶を高く評価し、側近とするほど重用した。天下人らしいスケールの大きさで、禁中に黄金の茶室を持ち込んだり、北野大茶会を催した。

薮内剣仲(やぶのうちけんちゅう)(1536-1627)

書院点前の古流を今に伝える茶家薮内流の一世。父 薮内宗巴と武野紹鴎について茶を学び、紹智と称した。利休とも交友が深く、古田織部の妹婿。

長谷川宗仁(はせがわそうにん)(1539-1606)

通称源三郎。紹鴎に学び、後に信長、秀吉に仕えた。絵師としても高名。大名物「古瀬戸肩衝茶入」は彼が所持していたもので「長谷川肩衝」といわれた。

古田織部(ふるたおりべ)(1544-1615)

戦国期の武将で、茶の湯を利休に学び、利休の七哲の一人とされる。利休死後、大名茶道の確立を招き、二代将軍秀忠の茶道師範としての地位を築いた。創意に満ちた動的、開放的な茶風を好み、沓形茶碗で知られる。織部焼の創始者。大阪の陣後、豊臣家との内通を理由に自刃を命じられた。

山上宋二(やまのうえそうじ)(1544-1590)

桃山期の堺の茶人、利休に学び、第一の弟子とされる。信長、ついで秀吉に仕えるが勘気に触れ殺された。名物記、茶の湯者伝、茶の湯の精神を記した「山上宋二記」は貴重な文献史料。

千道安(せんのどうあん)(1546-1607)

利休の先妻とに生まれた長男。利休に学び、利休、義弟少庵とともに秀吉の茶頭を務めるが、利休自刃後は離洛し、堺に住み、千家の中心となった。茶席の道安囲で知られる。

千少庵(せんのしょうあん)(1546-1614)

千家第二世、利休の後妻の子で利休の養嗣子。利休自刃後蒲生氏郷に庇護され、その後家康の尽力で赦免され千家を再興した。

牧村兵部(まきむらひょうぶ)(1546-1593)

キリシタン大名で、利休七哲の一人。古田織部の沓形茶碗より早く、安土城内で「ユガミ茶碗」を用いたと伝えられる。稲葉一鉄の孫(重通の子)、朝鮮出兵で戦死。

織田有楽斎(おだうらくさい)(1547-1621)

信長の弟で戦国期の武将。茶道有楽流の祖。本能寺の変後、秀吉の御伽衆となる。利休に茶の湯を学び、利休七哲の一人。

瀬田掃部(せたかもん)(1547-1595)

初め小田原北条氏に仕え、後に秀吉に従う。利休の茶を学び、利休七哲の一人とされた。大きな平高麗茶碗を愛用し、大振りの茶杓を用いて世に掃部形といわれる。

神谷宗湛(かみやそうたん)(1551-1635)

通称善四郎。桃山期の博多の豪商。天正15年正月の大阪城茶会に秀吉に招かれて後、島津征伐や朝鮮出兵の陰で尽力した。天正14年冬から慶長18年までの茶会記録「宗湛日記」は著名。

高山右近(たかやまうこん)(1553-1615)

キリシタン大名、利休七哲の一人。大阪の陣の前に家康によりルソン島へ放逐、マニラで客死。

蒲生氏郷(がもううじさと)(1556-1595)

信長、秀吉に仕えた戦国期の武将で利休七哲の一人。利休の自刃後、利休の次男少庵を自領にかくまい千家の再興に尽くした。

芝山監物(しばやまけんもつ)(生没年不詳)

戦国時代の武将。始め石山本願寺に属し、後に信長、秀吉に仕えた。後陽成天皇の聚楽第御幸の前駆を務めた。利休七哲の一人とされている。

本阿弥光悦(ほんなみこうえつ)(1558-1637)

江戸初期の文化人。書画、蒔絵、陶芸、作庭などあらゆる芸術分野に秀でた才能を発揮し、家康より与えられた土地洛北鷹ヶ峰に一族、工匠とともに移り住み、作陶に取り組んだ。寛永の三筆の一人。

細川忠興(ほそかわただおき)(1563-1645)

戦国期、江戸初期の武将、細川幽斎(藤孝)の長男で妻は明智光秀の娘たま(ガラシャ夫人)。和歌、連歌、絵画などに通じ、利休の茶の正統者といわれ、利休七哲の一人。

上田宗箇(うえだそうこ)(1563-1650)

桃山から江戸初期の武人。茶道上田流の祖。丹羽長秀、長重の臣で関ヶ原役後、蜂須賀氏庇護のもと千秋閣庭園を造営。のち剃髪して宗箇と号する。その後、紀州和歌山浅野家(幸長)につかえ、粉河寺庭園を造営し、浅野家の広島移封に従う。利休に学び、利休の没後、古田織部に師事した。

千宗旦(せんのそうたん)(1578-1658)

千家第三世、少庵の長男。利休の茶風を継承し、侘びを追求した。三男の江岑宗左に不審庵を譲り、以後表千家と称する。四男の今日庵(仙叟宗室)を裏千家、次男の官休庵(一翁宗守)を武者小路千家と称する三千家が成立した。

小堀遠州(こぼりえんしゅう)(1579-1647)

江戸前期の武将、茶道遠州流の祖。三代将軍家光の茶道師範で禁裏、堂上、武家に多くの門弟を持ち、武家茶道を築いた。古田織部に茶を学び、独自の茶道観を示した「書捨文」を著した。また建築や作庭もよくし、多くの名席や名庭を残している。

片桐石州(かたぎりせきしゅう)(1605-1673)

江戸初期の大名茶人で茶道石州流の祖。利休の侘び茶に傾倒する一方で、小堀遠州の後を受け、将軍家茶道指南となる。

久田宋全(ひさだそうぜん)(1647-1707)

江戸中期の茶匠で、表千家で重きをなす茶家、久田家の三代(初代は宋栄)。晩年は三千家の長老的存在であった。

堀内仙鶴(ほりのうちせんかく)(1675-1748)

江戸中期の茶匠、表千家の茶家堀内家の初代。俳諧と画技に秀でていた。二代目の頃より表千家入門には久田家、堀内家の取り次ぎを経る慣習ができた。

井伊直弼(いいなおすけ)(1815-1860)

近江彦根藩主、桜田門外で暗殺される。法号は宗観。石州流に通じ、「南方録」を研究し、「茶湯一会集」などの著書を著した。「一期一会」「独座観念」はその名言。

岡倉天心(おかくらてんしん)(1862-1913)

美術史学者、アメリカ人フェノロサの指導の下、日本、東洋の美術の研究や発展に尽くした。アメリカに渡りボストン美術館に迎えられ、明治39年(1906年)ニューヨークで「茶の本」(THE BOOK OF TEA)を英文で刊行、東洋の一小国の真価を海外に紹介した。

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