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茶道についてのお話 3
日本の生活文化と深い関わりを持つ、独自の様式。そして茶道史に登場する著名人  

茶室空間の美学

露地

昔は「路地、路子」などと書かれていたものに、千利休が露地という趣深い文字を当てました。茶室に附属して設けられた通り道も含む庭のことで、茶道では庭のあり方を「渡六部(わたりろくぶ)に景四部(けいよんぶ)」や「渡四部に景六部」といいます。普通の住居では、景は八分、九分で庭は眺めて楽しむものという考え方で設計されることがほとんどでしょうが、茶道では庭は使うものという観念があり、客を茶室まで導くための渡がまずあり、それから景である眺めが現れてきたと考えられます。樹木の一本一本、石の一つ一つに、実用と鑑賞のバランスの美が存在しており、侘びの心を呼びさましてくれます。

茶室

茶室

小間書院造りの広間で、別室で点てられた茶を喫していた広間の茶の方が歴史としては古いものですが、茶室といえばすぐ思い浮かべるのは村田珠光が創案したとされる四畳半でしょう。千利休においては一畳半の茶席をつくったことがあるといわれ、狭い空間の中で主客が一層親しみを深めたり、名物の道具類を間近で鑑賞することができるという利点から小間の茶室が一般化していきました。広間に対して小間と呼ばれる四畳半の茶室は大きく分けると、茶を点てる点前座と客の座る客座の二つの空間「主客同座」からなっています。
 

点前座は一畳に限られ、その半分に亭主が座り、残り半分は道具類が置かれます。

八炉

 

炉は客座と点前座の位置関係を決定するする重要なポイントで、炉の切り型は茶道八炉といわれる8種類があり11月から4月まで切られます。

 

 


 

床床も間取りにおける重要な構成要素で、上座に配置された一般的な床の間を上座床といい、出入り口に近く、点前座より下手に配置された床の間を下座床といいます。また他に亭主床という江戸初期頃から始められた、点前座の奥に床の間を配置したものがあります。床の様式は室床、袋床、琵琶床、織部床、畳床、板床など数多く見られ、利休以後、様々に変化しています。
 

出入り口

よく知られている躙口(にじりぐち)、茶室特有の小さな出入り口は利休によって始められたといわれています。客が部屋に入る時ににじりながら入るという古来の慣習もあり、茶道でも狭い茶室に入るのには必然的に身をかがめて入らなければならず、入った時の視点から部屋は大きく見え、床へ眼が向くという効果もあります。躙口は客のためのもので、身分の高い人のためには貴人口があります。亭主用の出入り口は、点前をするためのものが茶道口、点前以外の用の時は給仕口があります。

他にも、窓、天井、壁、棚、畳、水屋・洞庫、外観など茶室を形づくる要素は多くあり、いずれにしても亭主(流派)の創意、工夫、好みにより、茶室は限られた空間の中で「市中の山居」としての美を見事に表現してきました。  

茶道具の歴史 

中国の優れた絵画、陶磁器、漆芸、金工、織物などの美術工芸品、また香木、宝玉などを総称する「唐物」。

茶の湯の創生期、鎌倉時代から南北朝時代にかけて盛んになった茶寄り合いでは、茶の産地などを言い当てる勝負が行われていましたが、勝負の懸物(賞品)や室内の装飾に興味が移り始め、唐物を中心した美術品は特に珍重されていました。室町幕府は唐物奉行という専門部署を置き、管理や保管に当たらせるほど唐物の収集に力を入れましたが、戦乱で幕府の権力が弱体化すると、所持していた唐物は有力な町衆に散逸。将軍家伝来の名器のうち、残された物は大名物として今日まで大切に伝わっています。

室町時代末期になると、唐物以外にも備前焼、信楽焼といった和物や、また朝鮮半島、南蛮船で持ち込まれる南方の雑器の中から、茶道具として使用できる物を選び出す「見立て」が行われるようになります。茶の湯に携わる者は、目利きであると同時に見立てる力量を持つことが大きな条件となり、また楽茶碗のように茶の湯のために、茶人好みの器物を特別につくらせることも始まりました。

江戸時代には、独自の美意識を持つ茶匠古田織部、小堀遠州が現れ、茶道具にも強い影響を与えたり、また本阿弥光悦ほか、個性的な芸術家も現れ、独自の工芸品がつくられました。

町人の暮らしが豊かになり茶の湯人口が増加する元禄以降、家元制度が確立し、家元の作、好み、箱書きのあるのものが尊重されるようになり、大量の楽茶碗、茶杓などがつくられ弟子たちに配られたりもしました。そして茶会では、各流派の家元好みのものや箱書きのあるものばかりが使われるようになりました。

明治以降、文明開化により西洋のものだけがもてはやされ、絵画、工芸など日本の伝統芸術は全て否定され、茶道界も大きな打撃を受けました。新しく支配者階級になった政治家や実業家たちは由緒ある名物道具を収集し、それらを誇示するために茶会が開かれるようになりました。また仏教美術が道具として扱われるようになったり、巻物の歌集、因果経などを分断し掛け物としたりする風潮も現れてきました。

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茶道についてのお話 4
日本の生活文化と深い関わりを持つ、独自の様式。そして茶道史に登場する著名人  

茶道史に登場する著名人

えいさい
栄西(1141-1215)

鎌倉時代の臨済宗の僧で、建仁寺、寿福寺の開祖。中国に二度留学し、中国、宗の禅院の喫茶法と茶種を伝えたといわれる。茶の薬効を著した「喫茶養生記」を源頼朝に献じた。 

みょうえ
明恵(1173-1232)

鎌倉時代、華厳宗の僧。栂尾高山寺の開祖で当代一の高徳と敬われた。栄西から茶種を贈られ、栂尾山で栽培したと伝えられている。

ささきどうよ
佐々木道誉(1295-1373)

南北朝時代の武将でバサラ大名として知られ、「太平記」には、大量の唐物を賭け闘茶を行ったことが記されている。

いっきゅうそうじゅん
一休宗純(1394-1481)

室町時代の禅僧、大徳寺第四十七世。奇行で知られる。一条兼良、村田珠光ら在俗の弟子が多い。  

むらたじゅこう
村田珠光(1423-1502)

室町中期の茶人、今日の茶の湯の始祖。奈良称名寺の僧、茶の湯者を志して上洛した。茶会における精神性の重要さを説き、茶禅一味の境地に立つ新しい茶の湯を提唱した。  

あしかがよしまさ
足利義政(1436-1490)

足利八代将軍で在位中応仁の乱が起きる。東山山荘(銀閣寺)を造営。三代将軍足利義満の北山文化に対し、東山文化と呼ばれる芸術文化をつくる。作庭、立花、茶の湯、聞香、能楽、連歌などに優れ、所有の道具類は東山御物として知られる。

じゅうしやそうご
十四屋宗伍(生没年不詳)

室町末期の茶人。京都、下京に住み、数奇者として知られ、紹鴎に茶を教えたとされている。

たけのじょうおう
武野紹鴎(1502-1555)

安土桃山期、新興都市堺の茶の湯の中心人物。父は一代で富を築いた皮革商。紹鴎は早くから学芸に才能を示し、25歳で上洛、和歌を学び、茶は珠光流。閑雅な草庵の茶室、侘びの道具を創案し次の時代の茶の湯に大きな影響を与え、茶の湯中興の祖。今井宗久の岳父であり、利休の師匠。  

きたむきどうちん
北向道陳(1504-1562)

室町末期の茶人。利休に茶を教え、親交のあった紹鴎に利休を引き合わせたと伝えられる。

いまいそうきゅう
今井宗久(1520-1593)

桃山期の茶人で堺の豪商。武野紹鴎に学び、紹鴎の女婿となる。早くから信長に近づき、紹鴎を継ぎ茶の湯の第一人者になるかにみえたが、秀吉の時代には千利休が重用される。茶会記として「今井宗久茶湯書抜」がある。  

せんのりきゅう
千利休(1522-1591)

茶の湯の大成者天下一宗匠。祖父は千阿弥を称し足利義政の同朋衆ともいわれる。父の代に堺で魚問屋を営み納屋衆に。田中姓であるが千阿弥の千を称するようになる。17歳の頃から堺の茶会に出、茶の湯を北向道陳に学んだ後、武野紹鴎に師事、大徳寺にも参禅した。信長の茶頭に任ぜられ、秀吉の時代には茶頭八人衆の筆頭。天上十三年(1585年)、秀吉が正親町(おおぎまち)天皇の御茶献上の際に後見役を務め、朝廷より利休居士号を賜る。利休の茶の完成は晩年の10年間といわれ、利休しか到達できない茶の境地を開いた。秀吉の側近としても政治的にも力を持っていたが、関係が次第に悪化し、天正19年、死を命じられた。  

つだそうぎゅう
津田宗及(?-1591)

桃山期の茶人、堺の豪商天王寺屋に生まれ、早くから茶の湯、歌道に名を成す。信長、秀吉の茶頭を務め、当代一の目利きといわれた。利休、宗久と並び、三宗匠とされた。宗及伝来の油滴天目茶碗は国宝となっている。  

こけいそうちん
古渓宋陳(1532-1597)

古渓は字名。桃山期の禅僧、大徳寺第百十一世。秀吉によって筑紫配流になった際に、親交の深かった利休が催した送別茶会は有名。禅での弟子は利休ほか、千道安、今井宗久、古田織部ら。

すみよしやそうむ
住吉屋宗無(1534-1603)

桃山時代の堺の茶人。背高肩衝(せいたかかたつき)や松本茶碗など名器を多数所持していた。利休に学び、秀吉より堺八茶道者の一人に召され、御伽衆となる。

おだのぶなが
織田信長(1534-1582)

戦国時代下剋上の世に尾張に起こり、徳川家康と同盟し天下統一を目指すが本能寺の変に倒れる。今井宗久、津田宗及、利休らを茶頭に起用、「名物狩り」により天下の名物を所有。茶の湯を政治の世界に取り上げ、桃山期の武人茶を盛んにした。  

とよとみひでよし
豊臣秀吉(1536-1598)

信長に仕え、後を継いで天下統一を達成。利休、今井宗久、津田宗及らを茶頭に起用、中でも利休の侘び茶を高く評価し、側近とするほど重用した。天下人らしいスケールの大きさで、禁中に黄金の茶室を持ち込んだり、北野大茶会を催した。

やぶのうちけんちゅう
薮内剣仲(1536-1627)

書院点前の古流を今に伝える茶家薮内流の一世。父 薮内宗巴と武野紹鴎について茶を学び、紹智と称した。利休とも交友が深く、古田織部の妹婿。  

はせがわそうにん
長谷川宗仁(1539-1606)

通称源三郎。紹鴎に学び、後に信長、秀吉に仕えた。絵師としても高名。大名物「古瀬戸肩衝茶入」は彼が所持していたもので「長谷川肩衝」といわれた。  

ふるたおりべ
古田織部(1544-1615)

戦国期の武将で、茶の湯を利休に学び、利休の七哲の一人とされる。利休死後、大名茶道の確立を招き、二代将軍秀忠の茶道師範としての地位を築いた。創意に満ちた動的、開放的な茶風を好み、沓形茶碗で知られる。織部焼の創始者。大阪の陣後、豊臣家との内通を理由に自刃を命じられた。  

やまのうえそうじ
山上宋二(1544-1590)

桃山期の堺の茶人、利休に学び、第一の弟子とされる。信長、ついで秀吉に仕えるが勘気に触れ殺された。 名物記、茶の湯者伝、茶の湯の精神を記した「山上宋二記」は貴重な文献史料。

せんのどうあん
千道安(1546-1607)

利休の先妻とに生まれた長男。利休に学び、利休、義弟少庵とともに秀吉の茶頭を務めるが、利休自刃後は離洛し、堺に住み、千家の中心となった。茶席の道安囲で知られる。  

せんのしょうあん
千少庵(1546-1614)

千家第二世、利休の後妻の子で利休の養嗣子。利休自刃後蒲生氏郷に庇護され、その後家康の尽力で赦免され千家を再興した。  

まきむらひょうぶ
牧村兵部(1546-1593)

キリシタン大名で、利休七哲の一人。古田織部の沓形茶碗より早く、安土城内で「ユガミ茶碗」を用いたと伝えられる。稲葉一鉄の孫(重通の子)、朝鮮出兵で戦死。

おだうらくさい
織田有楽斎(1547-1621)

信長の弟で戦国期の武将。茶道有楽流の祖。本能寺の変後、秀吉の御伽衆となる。利休に茶の湯を学び、利休七哲の一人。  

せたかもん
瀬田掃部(1547-1595)

初め小田原北条氏に仕え、後に秀吉に従う。利休の茶を学び、利休七哲の一人とされた。大きな平高麗茶碗を愛用し、大振りの茶杓を用いて世に掃部形といわれる。

かみやそうたん
神谷宗湛(1551-1635)

通称善四郎。桃山期の博多の豪商。天正15年正月の大阪城茶会に秀吉に招かれて後、島津征伐や朝鮮出兵の陰で尽力した。天正14年冬から慶長18年までの茶会記録「宗湛日記」は著名。

たかやまうこん
高山右近(1553-1615)

キリシタン大名、利休七哲の一人。大阪の陣の前に家康によりルソン島へ放逐、マニラで客死。

がもううじさと
蒲生氏郷(1556-1595)

信長、秀吉に仕えた戦国期の武将で利休七哲の一人。利休の自刃後、利休の次男少庵を自領にかくまい千家の再興に尽くした。  

しばやまけんもつ
芝山監物(生没年不詳)

戦国時代の武将。始め石山本願寺に属し、後に信長、秀吉に仕えた。後陽成天皇の聚楽第御幸の前駆を務めた。利休七哲の一人とされている。  

ほんなみこうえつ
本阿弥光悦(1558-1637)

江戸初期の文化人。書画、蒔絵、陶芸、作庭などあらゆる芸術分野に秀でた才能を発揮し、家康より与えられた土地洛北鷹ヶ峰に一族、工匠とともに移り住み、作陶に取り組んだ。寛永の三筆の一人。  

ほそかわただおき
細川忠興(1563-1645)

戦国期、江戸初期の武将、細川幽斎(藤孝)の長男で妻は明智光秀の娘たま(ガラシャ夫人)。和歌、連歌、絵画などに通じ、利休の茶の正統者といわれ、利休七哲の一人。

うえだそうこ
上田宗箇(1563-1650)

桃山から江戸初期の武人。茶道上田流の祖。丹羽長秀、長重の臣で関ヶ原役後、蜂須賀氏庇護のもと千秋閣庭園を造営。のち剃髪して宗箇と号する。その後、紀州和歌山浅野家(幸長)につかえ、粉河寺庭園を造営し、浅野家の広島移封に従う。利休に学び、利休の没後、古田織部に師事した。  

せんのそうたん
千宗旦(1578-1658)

千家第三世、少庵の長男。利休の茶風を継承し、侘びを追求した。三男の江岑宗左に不審庵を譲り、以後表千家と称する。四男の今日庵(仙叟宗室)を裏千家、次男の官休庵(一翁宗守)を武者小路千家と称する三千家が成立した。  

こぼりえんしゅう
小堀遠州(1579-1647)

江戸前期の武将、茶道遠州流の祖。三代将軍家光の茶道師範で禁裏、堂上、武家に多くの門弟を持ち、武家茶道を築いた。古田織部に茶を学び、独自の茶道観を示した「書捨文」を著した。また建築や作庭もよくし、多くの名席や名庭を残している。  

かたぎりせきしゅう
片桐石州(1605-1673)

江戸初期の大名茶人で茶道石州流の祖。利休の侘び茶に傾倒する一方で、小堀遠州の後を受け、将軍家茶道指南となる。  

ひさだそうぜん
久田宋全(1647-1707)

江戸中期の茶匠で、表千家で重きをなす茶家、久田家の三代(初代は宋栄)。晩年は三千家の長老的存在であった。  

ほりのうちせんかく
堀内仙鶴(1675-1748)

江戸中期の茶匠、表千家の茶家堀内家の初代。俳諧と画技に秀でていた。二代目の頃より表千家入門には久田家、堀内家の取り次ぎを経る慣習ができた。 

いいなおすけ
井伊直弼(1815-1860)

近江彦根藩主、桜田門外で暗殺される。法号は宗観。石州流に通じ、「南方録」を研究し、「茶湯一会集」などの著書を著した。「一期一会」「独座観念」はその名言。

おかくらてんしん
岡倉天心(1862-1913)

美術史学者、アメリカ人フェノロサの指導の下、日本、東洋の美術の研究や発展に尽くした。アメリカに渡りボストン美術館に迎えられ、明治39年(1906年)ニューヨークで「茶の本」(THE BOOK OF TEA)を英文で刊行、東洋の一小国の真価を海外に紹介した。

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茶道についてのお話 5
茶の湯の作法あれこれ「素朴な質問にお答えします」  

茶室の四畳半はなぜ?

茶室の始まりとされる、足利義政造営の東山山荘(銀閣寺)の東求堂の書院、同仁斎の広さが四畳半であったこと。他に諸説もありますが、茶室が広まる基となった広さで、村田珠光、武野紹鴎、千利休ともに四畳半を基本にしたことが決定的にしたといわれています。 大勢の客を対象とした会所や書院座敷の喫茶が、少人数で嗜む草庵の茶の湯に変化していく上で、相応した広さになっていったようですが、足利義政によって造営された東山山荘(銀閣寺)の東求堂の書院である同仁斎の広さが四畳半で、始まりではないかといわれています。維摩居士の方丈が四畳半に近い広さであったこと、村田珠光によって室町邸の殿中十八畳を四分して一つを囲ったことなど、諸説も伝えられていますが、茶室が発展していく上での基本となった広さで、村田珠光、武野紹鴎、千利休がともに四畳半を基本としたことが決定的にしたといわれています。

茶室の入り口の狭いのは?

茶室特有の小さな出入口は躙口(にじりぐち)といい、高さ二尺二寸余、横二尺一寸が標準。利休によって始められたといわれます。屋形船の出入り口がヒントとも伝えられていますが、客が部屋に入るときには、にじりながら入るという礼儀があり、また狭いところに入るのには身を小さくするのが自然であり、必然的に至ったようです。
身をかがめて入った部屋は広く感じられたり、床の間が目線と同じだったり、視覚的な効果もあってのことでしょう。  

茶道が女性に普及したのは?

女性も茶道を嗜むようになったのは明治以降のことで、近代茶道の創始者といわれる裏千家十三世圓能斎宋室が女学校教育に茶道を取り入れたのが始まりとされます。さらに昭和になり女子教育が盛んになるとともに急激に普及しました。  

懐石と会席の違いは?

江戸前期までは、茶の湯の料理を会席と記してあり、懐石の文字が初めて表れるのは「南方録」において。懐石は、修行中の禅僧が温石を懐に入れ空腹や寒さをしのいだということから、飢えが一時的にしのげる程度の軽い食事の意味です。現在は茶事に出される料理を懐石、宴席の料理を会席といっていますが、きちんとした区別はされていません。 

薄茶と濃茶はどう違う?

抹茶は、玉露などの高級茶と同じく若芽や若葉の時期に直射日光を当てないよう覆いをかぶせて栽培したお茶の木の新芽を蒸して乾燥したものを茶臼でひいてつくられます。薄茶は比較的若い茶樹から、濃茶は樹齢70から80年以上の古い茶樹から摘んだものでという説もありますが、薄茶も濃茶も同じ製法からつくられ、全ての抹茶は薄茶として点てられることいができます。ただし濃茶は濃くどろりと練り上げる抹茶のため、苦味や渋味を強く感じさせない良質の抹茶を使用します。  

お茶の前に出るお菓子は?

茶道で用いられるお菓子は、いわばお茶の引き立て役ともいわれるもので、一服のお茶をいかにおいしく味わっていただくかという重要で欠かせないものです。主菓子(おもがし)といわれる生菓子と、惣菓子(そうがし)といわれる干菓子があり、正式な茶事では主菓子は懐石の一番最後に口直しとして出され、後入りしてからの濃茶にそなえるもので、濃茶の後に出される薄茶では干菓子が用いられます。今日、一日に数十人、数百人を招く大寄せの茶会では薄茶にも生菓子が使用されます。  

利休七則とは?

「利休七ヶ条」とも「茶湯七則」ともいい、利休が教示した茶湯の心得です。諸説伝わっていますが「茶は服のよきように点て」「炭は湯の沸くように置き」「花は野にあるように」「夏は涼しく、冬は暖かに」「刻限は早めに」「降らずとも傘の用意」「相客に心せよ」とあり、「とかく茶の湯は結構を好まず、きれいさびたる仕様よく候」と結んであります。  

茶と禅の関係は?

現在一般的にいう茶道は、鎌倉時代に栄西がもたらした喫茶法を起源に、室町時代に村田珠光が禅の精神と喫茶の作法を統合して生み出したものです。それをさらに利休が、書院での茶の湯と草庵での茶の湯を一体化させ、禅院での茶の湯も取り入れて「道」としての茶道が確立されました。「茶禅一味」という言葉のように、人間形成においては茶と禅の精神性は一体の関係にあります。  

一期一会とは?

茶会の心得をいうもので、茶書に著された最初のものは、利休の高弟山上宋二の「山上宋二記」で、常々の茶会でも一生に一度の会だと思って茶会に臨まなければならないと説いています。幕末の大老井伊直弼は茶人としても有名で、その著書「茶の湯一会集」の中で、一生のうち今の茶会は一度限りのものと覚悟して主客の交わりを結ばなければならないと述べています。一期一会、茶人にとっては第一の心構えです。現在は茶道の世界だけでなく、一般的にもよく使われ、一生に一度の出会いとか、一生に一度限りのことというような意味に使います。

和敬清寂とは?

茶の湯の精神を要約して利休が示した「利休四規」と称される言葉です。「茶の道四ツあり、能、和し能く敬し能く清く寂なり」、つまりお互いが心より和し敬い合い、清らかな気持ちで会し、寂然不動の心を持つことが茶道の根本精神であることを説いたものです。