最優秀賞

尾﨑と酒と

  広島県三原市 水野 智富美

 私が尾﨑士郎の名を知ったのは、七、八年前に読んだ司馬遼太郎の回顧録の中である。まだ新聞記者であった司馬が京都の料亭で尾﨑を接待した時の話だ。「『篝火』は良かったですね」と話が盛り上がったところで、尾﨑が気恥ずかしそうに「ここに少しお酒があったらうれしいのだけど」と所望した。話に夢中だった司馬ははっとして「そうだ、この先生はお酒がお好きであった」と、自分の気の回らなさを恥じ入ったというエピソードである。他のやりとりは忘れてしまったが、ここだけはよく覚えている。うれしそうに杯を手にする尾﨑の無邪気な笑顔と、「気恥ずかしそうに」酒を望んだかわいらしさがほほえましく心に残った。穏やかで楽しい酒を飲む人だろうな、と想像もした。そしてその通りの場面が多いという点で、私は「雲悠々」が好きである。

 すでに絶版になっていた「篝火」をやっと手に入れたのは、光文社の文庫版である。「篝火」と「雲悠々」の二篇が収録されている。関ヶ原の戦いを、実況中継さながらのスピードで筆を進める「篝火」は、息をつく暇もない。もちろん諸将も酒を飲んでいる余裕はなく、文中で酒を酌み交わす場面はわずか二カ所にすぎない。棟(杭)瀬川で勝利した西軍が大垣城内で祝い酒を振る舞う場面、もう一つは小西行長がさんざん迷った末、「止むなく出陣」を決めた後、家臣たちと別離の酒を酌み交わす場面だ。この二つは一見対照的に見えるが、尾﨑の心情としては、どちらも同じく苦い酒であろうと思う。関ヶ原の戦果も三成の行く末も、後世の我々は知っているからだ。せめて一時、三成にうまい酒を飲ませたかった尾﨑の心根をくみ取りたい。

 これに対し、「雲悠々」は敗戦とはいえ、戦場から解放された落ち着きからか、酒の出てくる場面は多い。同一人物での描写も含めると、十カ所にものぼる。中でも最も数が多く、心にも残っているのが、前田慶次郎と後藤又兵衛が語らう場面である。

 島左近の最期を語る又兵衛は「酒を、ひったくるようにして、二、三杯立てつづけにぐいぐいと飲みほし」ている。ここに又兵衛の口惜しさと無念さを感じないではおれない。「沁みじみ飲み合った」三成に親愛の情を抱いていただろうし、「左近ほどの男が」という言葉には、島への尊敬すらうかがえる。旧主家に従ったとはいえ、それが部将のさだめとはいえ、敬愛する者たちを滅亡に追いやった運命の過酷さと自分自身への理不尽な思いが渦巻いている。こんなに立派な部将たちが汚名を着せられて、あるいは処刑され、あるいは浪人となっていく世の中に憤っている。その怒りを「主家を退散」という形でぶつけたのだと思う。少々の酒ではまぎらわせられまい。悲しく、激しい酒である。

 しかしこれ以外の酒の場面は、悲しくはあるが温かい酒である。薩摩へ帰る島津義弘が立花宗茂を御座船に誘い、「かすかな生色をうかべ」て「何はなくとも一杯まいろうか」と杯をわたす。「篝火」で、義弘の決死の退却劇を読んできただけに、生きて帰られて本当によかった、と人心地がつく。三成や戦場に倒れた部将たちに思いをはせながら、「荒れ狂う波」の上で二人が交わした杯は、つかの間の平安を物語る。敗戦の将たちにはこの後、「荒れ狂う波」のような人生が待っているのだ。田中吉政が三成を捕縛した際、「こっそり、酒肴の用意を整えさせ」ているのも世をはばかりながらも心を尽くしている人情が感じられる。

 尾﨑は情景を語る作家だと言われている。確かにそう思う。その中にあって、酒は、心を描く数少ない道具だと思うのだ。人の温かさも、怒りも、酌み交わす酒が十分に映し出している。尾﨑自身も酒が好きだったそうだが、だからこそ酒に心をのせられたのではないだろうか。そこで一つ気がついた。三成が酒を飲む場面はないことである。「雲悠々」から推察するに、尾﨑にとって、酒は楽しいものである。温かいものである。同時に切ないものでもある。家康の前に引き立てられてなお、「もう一度、関ヶ原に貴公と一戦交えたい」「関ヶ原の敗戦によって三成の志が廃れたのではない」と言い放つ三成には、感傷にひたる過去はない。絶望する現在もない。あるのは悽愴な未来ばかりである。そんな三成に、尾﨑の思う酒は似つかわしくない。そう考えただろうか。

 この作品は、敗戦の将たちの語らいで進められるが、愚痴や絶望は語られない。ただ酒が酌み交わされる。運には負けたかもしれないが、人間として敗れたのではない。敗者は決して弱者ではない。そういう尾﨑の熱い叫びが、杯の中にぐっと閉じこめられている。敗れた者への愛情、酒への愛着がしみじみと身にしみた作品であった。

 

優秀賞

命の行方

平坂中学校三年 田中 大翔

 以前移植手術のことを取り上げた番組を見る機会がありました。幸いにもぼくの周りに移植を必要とする人はいなかったのであまり深く考えることもなく、大変なことだとはわかってはいてもどうしても身近に感じることができず、遠まきにぼんやりながめているような感覚でしかありませんでした。しかし移植手術を受ける人がいるということは、臓器提供をする人がいるということです。提供する側、ドナーという聞き覚えのある言葉に他人ごとではない気がしました。自分が死んだ後のことなんて今まで考えてもみなかったけれど、命をつなぐと言われるこのドナー制度についてぼくは少し調べてみることにしました。

 今の日本には臓器提供を望む人が約一万三千人みえます。が実際に移植を受けられた人は年間約三百人だそうです。なぜこんなに移植率が低いのだろう。自分の死後に人を助けることができるこのドナー制度にいったいどんな問題があるのだろうか。平成二十一年に改正された臓器移植法により、本人の意志に関係なく家族の同意のみでの移植が全年齢で可能になりました。産まれたばかりの赤ちゃんでもドナーになれるのです。これにより移植数は大幅に増え改正は数字的には大成功といえます。しかしその一方で本人の意志を無視した移植に対して疑問の声も上がっています。ぼくは絶対的にドナー賛成派でした。ぼくの死後誰かを救うことができるのなら、命をつなぐといわれるこのドナー制度に惜しみなく自分の体を提供しよう。母の話を聞くまではそう思っていたのです。

 父が亡くなったのは六年前、ぼくが小学三年生のときでした。両親は父が病気になる以前にドナー登録について話しあったことがあったそうです。最期に誰かの役に立てるのならそうしたい。二人の意見は同じでした。でもドナー登録の正式な手続きはしないまま二年ほど経ち、父の病気がわかったときには生きるために何をすべきかを考えるのに必死な毎日で、ドナーについて考える余裕などなかったそうです。父の命がもう長くないと知ったとき、母は以前父と話したドナー登録のことをふと思い出したそうです。しかし懸命に生きようとしている父の姿に、死を連想させるような話をどうしてもすることができず、結局病気になってからの父の真意を確かめることができなかったそうです。一年の闘病の末父は他界しました。平成二十二年。法律が改正され、家族の同意があれば本人の意志に関係なく臓器提供が可能になった翌年でした。しかし母はその道を選びませんでした。現実に父がその立場になり、移植のため体のいくつかの部分が切りとられることを想像するとどうしても怖くて決断できなかったそうです。

 ぼくはドナー制度を知ったとき単純にするべきだと思いました。もう死んでしまっている自分の体で他に苦しんでいる誰かを救うことができるなんてそんな素晴らしいことはない。何をためらうことがあるのか。そう思っていたのです。母の気持ちを知るまでは。ぼくはドナーの残された家族の気持ちに目を向けることができていませんでした。人助けをする一方で大切な家族を傷つけてしまうこともあるのです。数年経った今でも母は考えることがあるのだそうです。あのときの決断は正しかったのかと。ぼくの母のように亡くなる直前や直後に決断しようと思うと、ゆっくり考えたり誰かに相談する時間などありません。後悔せずに大切な家族を送ることができるよう、元気なうちに意志をしっかりともち家族で話し合っておくことが大切なのだとわかりました。ドナーになるから偉いのでも、ならないから冷たいわけでもありません。誰もが大切な家族の命を大事に思えばこその答えなのです。大切な人の最後のときを決して後悔することのないよう、その命の行方について是非一度、家族のみなさんで話し合う機会をつくってみてはいかがでしょうか。