三河万歳(みかわまんざい)は、太夫(たゆう)才蔵(さいぞう)がおめでたい歌や台詞を掛け合いながら舞い、新年の訪れを祝福する民俗芸能です。西尾では西野町(にしのまち)の森下村(現在の上町北側)で伝承されたことから「森下万歳」と呼ばれています。平成8年に安城市・幸田町の万歳とともに「三河万歳」として国の無形民俗文化財に指定されました。

 

起源については諸説があります。

  1. 「吉良太夫説」その1
    壬申の乱(672)後に森下の地に移り住んだ高坂王の長男・吉良太夫が、持統天皇(または文武天皇)の三河行幸のときに御前で万歳を舞ってお祝いした。その後、森下で万歳を舞うものが多くなった。(天和2年(1682)編『万歳系図書』ほか)
  2. 「吉良太夫説」その2
    大宝年中(701~4)の文武天皇三河行幸の際に三河国額田郡舞木村(岡崎市舞木)出身の吉良太夫が舞った。吉良太夫は永延2年(988)に大和へ移り、文保2年(1318)に西野町へ移ってきた。
  3. 「彦左衛門、兵次、吉良太夫庄司説」
    文武天皇三河行幸の時、山中村(額田郡)の百姓・彦左衛門と兵次が酔って催馬楽を歌い舞った。2人はそのまま大和国へお供した。一条院(在位986~1011)の頃に三河守大江貞(定)基の前で万歳楽が舞われ、吉良太夫庄司に諸国巡礼の許可と万歳歌詞が与えられた。(『万歳由緒書』)
  4. 「応通禅師説」
    建治3年(1277)に中国明州出身の陣昭と答谷が実相寺第2世応通禅師を訪ねて渡来した。禅師が2人に万歳楽賦を作って与え、歌い舞うことを仕事とするように勧めた。のちに子孫が増えて一村となった。(『実相安国禅寺伝記』)

もっとも盛んとなったのは江戸時代で、陰陽道の土御門家の支配と保護を受け、江戸をはじめ関東諸国を廻りました。とくに三河出身の徳川家によって優遇され、苗字帯刀や大紋の直垂の着用が許され、正月元旦の江戸城開門式を司ったといいます。卯の刻(午前6時)に万歳師が門の外から「鍵いらず戸ざさる御代のあけの春」、門内から「思わず腰をのばす海老錠」と高らかに謡い、その声のうちに開門したと伝えられます(『西尾町史』)。森下万歳は門付けではなく「檀家」と呼ばれる決まった得意先を訪問し、その屋敷の座敷で舞うために「御殿万歳(ごてんまんざい)」とも呼ばれました。

明治以降、万歳は神道職として県の許可を得て巡業が続けられましたが、戦時下で中断し、戦後に一部の人によって復興されましたが、時代の変化とともに衰退してゆきました。昭和29年に三河万歳保存会が結成され、31年に県の無形民俗文化財、46年に文化庁から「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財選択民俗芸能」とされましたが、後継者が育たず、近年は成年で万歳を舞うことのできる人は途絶えてしまいました。

白黒 万歳成年

(左)昭和40年代の三河万歳  (右)平成2年頃の三河万歳

現在は、西野町小学校の「御殿万歳クラブ」が伝承の中心となり、公演活動を重ね、後継者育成のための取り組みが少しずつ進められています。