1.沿革

 明治2年(1869年)大政が奉還され、同4年には廃藩置県によりこれまでの西尾藩は西尾県となり、同年11月には、三河全部と知多をあわせた額田県となりました。郵便局が西尾にできたのはこの年です。
 それからまもなく、この額田県は愛知県に入り、幡豆郡は15大区のうち第11区に属しましたが、この頃の幡豆郡は27町と188村となっており、会所は西尾(錦城)におかれました。その後、明治11年(1878年)には、大区をなくして郡区となり、明治22年(1889年)に至って市制・町村制が実施されると同時に大がかりな町村合併が行われ、幡豆郡は西尾町のほか18村となりました。
 もちろん、郡政の中心が西尾におかれたことはいうまでもありませんが、この2年後には西尾に電信施設ができ、明治24年(1891年)東海道本線が開通した頃を境に、交通の中心から離れた西尾の発展は、大きく後退することとなったようです。
 ついで、明治39年(1906年)には、また町村の大合併が行われました。そのようすは次のとおりです。
 西尾町……西尾町・西野町村の一部・久麻久村・大宝村の一部・奥津村の一部
 平坂町……平坂町・奥津村の一部・中畑村・西野町村の一部
 寺津町……寺津町・西崎村
 福地村……豊田村・六郷村・井崎村・大宝村の一部
 三和村……川崎村・御鍬村・吹羽良村
 室場組合村……室場村・花明村・家武村・平原村

 このようにして、めまぐるしい明治維新の地方自治制の変遷は終わりましたが、この間の文明の進歩はさらにめざましいものがあり明治43年(1910年)には電話が開通し翌44年には西尾・岡崎間に軽便鉄道が走り、東海道本線の汽車に連絡するようになりました。名鉄本線が敷設されたのは、それから12年後の大正12年(1923年)で、同15年には米津、今村間に電車が走り、西尾の交通も大変便利になりました。
(三河線の開通は昭和元年)

 そして、昭和の長い戦争から開放された昭和22年(1947年)新しい憲法が施行され、民主政治の基本がはっきりと決められ、地方自治が定められました。このため今までのような小さい町村では、いろいろな点で不便があり、再び大がかりな町村合併が必要になり西尾町も昭和27年に福地村の一部を、翌年には平坂町の一部を合併して、12月15日待望の市制を施行し、県下14番目の市となり、翌年には平坂町・寺津町・福地村室場村を、さらに昭和30年には三和村と明治村の一部を合併、人口7万を擁する県下6番目の大都市に躍進しました。

 平成23年4月1日には、幡豆郡一色町、吉良町及び幡豆町と合併しました。